若いころの婚活には、見えない締め切りのようなものがついて回る。何歳までに結婚して、家庭を持って、という道筋を、まわりも自分も当たり前のように思い描いている。だから出会いは、どこかゴールを目指す競走に似てくる。
けれど四十を過ぎ、五十を越え、六十の声を聞くころになると、求めるものの手ざわりが静かに変わってくる。結婚という一点に突き進むというより、これからの長い後半を、いったい誰と過ごすのか。そしてその相手が、友だちなのか恋人なのか、最初からきっちり決めておく必要すらない。
シンシアリーユアーズは、まさにその曖昧さごと受け止めるためのサービスだ。四十代以降の大人世代に的を絞り、友活から恋活まで、どちらの入り口からでも始められるようになっている。口コミでは、落ち着いた会員が多い、年齢層が合っていて気後れしない、という声が並ぶ。実際に活動した人たちの話を順に聞いていくと、ここで起きているのは、若い世代の婚活とはずいぶん性質の異なる、急がない出会いだった。定年、死別、子の独立。人生の節目でふと一人になった人たちが、もう一度、誰かと並んで歩きはじめている。その歩幅は、驚くほどゆっくりだ。誰かと急いで添い遂げる必要は、もうない。残りの時間を、心地よく分かち合える相手がいればいい。そういう、肩の力の抜けた願いが、この世代の出会いには流れている。
まず、一人じゃなくなる。それだけで十分なこともある
この世代の利用者が最初に求めるものは、必ずしも恋人ではない。長年勤めた仕事を離れ、子どもが巣立ち、ふと気づくと、平日の昼間に電話一本かけて気軽に会える相手がいない。予定のない一日が、やけに長く感じられる。その静かな孤独をどうにかしたい、というのが、活動の出発点になることが多い。恋愛は、そのずっと先の話だ。
約束できる相手がいる、それだけで日々が変わる
六十二歳の佐藤さんは、定年後に押し寄せてきた手持ち無沙汰と孤独を持て余して、登録した。狙いは恋愛ではなく、はっきりと友活だった。同年代の男性とマッチして、休みの日に散歩へ出かけたり、泊まりがけの旅行に出たりする間柄になり、何の気兼ねもなく話せる相手ができたことで、味気なかった毎日に張りが戻ったという。恋活に発展しなくても、これで十分に楽しい、と本人は言う。次の週末に誰かと会う約束がある。たったそれだけのことで、一日の輪郭がくっきりしてくる。五十三歳の渡辺さんもまた、恋人探しではなく、純粋に話し相手や遊び仲間を求めて活動した。同性の気の合う友人も、肩肘張らずに話せる異性の知り合いも増え、連れ立って旅行へ行ったり、文化講座に通ったりするようになった。ずっと胸の底に居座っていた孤独感が、ずいぶん薄らいだという。
六十八歳の山田さんに至っては、人生の後半を少しでも温かいものにしたい、というそれだけの願いで始め、同年代の男性と、互いをそっと支え合う関係を築いた。この歳になっても出会いはちゃんとある、というのが、山田さんの偽らざる実感だそうだ。恋人をつくらなければ、結婚しなければ、という重圧がないぶん、人は気楽に手を伸ばせる。会ってみて、ただの友だちで終わってもいい。そう思えるだけで、最初の一歩はずっと軽くなる。パートナーという一語に縛られないからこそ、この場所の入り口は、誰にでも開かれている。
友だちのつもりが、いつのまにか
面白いのは、友活として始まったはずの関係が、時間をかけて、少しずつ別の色を帯びていくことだ。この年齢になると、ひと目で恋に落ちるというより、まず相手の人となりを、ゆっくり時間をかけて知っていく。ときめきが先に立つ若いころとは、順番がちょうど逆なのかもしれない。
ゆっくり知り合ううちに、関係の色が変わる
四十七歳の鈴木さんは、仕事ひと筋で生きてきて、気づけば友人付き合いがすっかり細っていた。だから登録したときの目的も、恋愛ではなく友活のほうだった。共通の趣味がガーデニングだという女性とマッチし、それぞれが育てている植物の写真や近況を、定期的にやり取りするようになる。花が咲いた、虫にやられた、といったたわいない報告を重ねるうちに、その会話そのものが日々の楽しみになっていった。土いじりの話から始まった関係が、気づけば恋愛の感情へと、どこにも無理なく移ろっていったという。年齢を重ねてからの出会いは、焦らず、ゆっくり進められるのがいい、と鈴木さんは語る。
五十五歳の高橋さんも、定年後のセカンドライフを充実させたい一心で、最初は友活を中心に動いていた。ところが、ものの見方や価値観の重なる女性と言葉を交わすうちに、気持ちは自然と恋活のほうへ傾いていった。これからの人生を前向きに考えられるようになった、という内側の変化が、本人にとっては何より大きかったらしい。友活と恋活のあいだに、くっきりした境界線などない。若い恋愛のように、好きか嫌いかを早々に突きつけられることがない。何度も会い、季節をいくつか越えるうちに、これは友情なのか、それとも違う何かなのかが、自分でもだんだん分かってくる。どちらかに決めなくていいからこそ、関係はそれぞれの速度で、なるべき形へと落ち着いていく。急がない時間が、いちばんの味方になる。
喪失のあとに、もう一度、誰かと歩く
人生の後半には、大切な人を見送るという経験が、否応なく増えていく。長年連れ添った相手を失えば、しばらくは何をする気力も湧かない。そんな深い時期をくぐり抜けた人が、もう一度、誰かとつながろうと思い直すとき、その最初の一歩は、はたから見るよりずっと重い。
同じ痛みを知る相手とだから、ほどけていく
六十一歳の伊藤さんは、夫を亡くしたあとに登録した。いきなり恋を求めたわけではなく、まずは友活から、おそるおそる始めたという。マッチした同年代の男性と、それぞれが抱えてきた喪失の経験を、ぽつり、ぽつりと分かち合ううちに、固く縮こまっていた心が、少しずつほどけていく。同じ別れをくぐった者にしか分からない沈黙の重さが、二人のあいだには流れていた。やがて関係はゆっくりと交際へ深まり、人生の後半を一緒に歩いてくれる相手が見つかったことで、毎日に光が差したという。サービスの手厚さが心の支えになった、と伊藤さんは感謝の言葉を口にする。
空いた時間が、新しい縁の入り口になる
五十二歳の田中さんの場合は、子どもが独立したあとに残された、ぽっかりとした時間がきっかけだった。これまでは子育てに追われて考える余裕もなかったが、ふと立ち止まったとき、これからの時間を一人で過ごすのは寂しいと気づいた。再婚を望んで活動し、初めての食事の席で、人生観の重なる男性と出会う。穏やかな交際をゆっくり重ね、一年後には結婚した。大人世代向けのサービスは、心理的な負担が驚くほど少ない。落ち着いた雰囲気が、自分の気性に合っていた、と田中さんは振り返る。失ったあと、あるいは役目を終えたあとに、もう一度踏み出すには、決して急かされない場所が要る。
同じ年輪だから、説明のいらない安心がある
年齢層がそろっていることの値打ちは、写真うつりの釣り合いだけにとどまらない。同じ時代の空気を吸い、似たような喜びや痛みをくぐってきた者どうしには、いちいち言葉にしなくても、すっと通じ合えるものがある。
多くを語らずに、分かってもらえる
六十四歳の中村さんは、再婚を望んで活動し、自分とよく似た境遇の女性とマッチした。子どもや孫の話で自然と会話がはずみ、いつのまにか、家族ぐるみで行き来する間柄になっていった。人生経験を十分に重ねた世代どうしの出会いは、互いへの理解がとにかく深い、と中村さんは言う。若い相手であれば一から説明しなければならないような事情も、同年代であれば、多くを語らずとも察してもらえる。これまで歩いてきた長い年月が、引け目ではなく、そのまま共通の土台として働いてくれる。口コミでくり返し語られる安心感とは、この説明のいらない感覚のことなのだろう。離婚も、死別も、子育ての苦労も、相手はもうとうに知っている。若い世代の出会いが、これからの自分を一緒につくっていく相手を探すものだとすれば、この世代の出会いは、すでに生きてきた自分を、まるごと受け止めてくれる相手を見つけることに近い。歩んできた道のりごと、互いを肯定し合える。その前提の上に立って関係を始められるのは、年齢を重ねてきたからこそ手にできる、ささやかな贈り物かもしれない。
地方でも、焦らなくても、自分のペースで
もちろん、いいことばかりではない。会員の数は、都市部に比べると地方ではどうしても少なくなりがちだし、活動全体のペースもゆったりしている。登録すればすぐに大勢と出会える、というたぐいのサービスではない。そのあたりは、期待を膨らませすぎる前に、知っておいたほうがいい。
距離があっても、心理的には近い
四十八歳の木村さんは地方に住んでいて、はたして近くにどれだけ会員がいるのか、始める前は不安もあったという。それでも検索の機能を使って近隣の男性を根気よく探し、まずはオンラインのやり取りから関係を始めた。少しずつ実際に会う機会を重ねていき、今では良好な間柄を築いている。年齢層がしっかり合っているぶん、住む場所に多少の距離があっても、心理的にはむしろ近く感じられた、というのが木村さんの実感だ。会員数という数字の不利を、世代の近さが補ってくれた格好だった。
焦らなくていい、けれど立ち止まっては始まらない
一方で、ただ待っているだけでは、出会いはなかなか動き出さない。四十六歳の佐々木さんは、仕事の合間の短い時間を縫って、こまめにメッセージを送り続けた。年齢を重ねても、自分から手を伸ばす人のところに、縁は集まってくる。何人もの女性と少しずつ交流を重ねた末に、相性の良い相手と交際へ進んだ。この世代の出会いで大事なのは、焦らないことと、立ち止まらないこと、その両方だ。急ぐ必要はどこにもない。けれど、自分から一歩を踏み出さなければ、何も始まらない。ゆっくりでいい、けれど確かに手を伸ばす。そのさじ加減が、大人世代の活動にはちょうどいい塩梅なのだろう。
若いころの出会いが、結婚という一点だけを目指す一本の直線だとすれば、この世代の出会いは、もっと枝分かれした、ゆるやかな野道に似ている。友だちが欲しくて入ったはずの人が、いつのまにか連れ合いを見つけることもあれば、恋などまるで期待していなかった人が、心を許せる話し相手を得て、静かに満たされることもある。シンシアリーユアーズがしっくりくるのは、自分が何を求めているかをきっちり見定めてから動きたい、という人ではないのだろう。むしろ、これからの道を一人きりで歩くのはやはり少し寂しい、けれど何が始まるかは決めずにおきたい、というあわいにいる人にこそ、この場所はやさしい。歳を重ねるほど、新しい出会いなど望むべくもない。多くの人がそう思い込んでいる。けれど、思いきって玄関を一歩出てみれば、同じように誰かを求めている人が、ちゃんと同じ年ごろにいる。一緒に出かける相手、電話の向こうで近況を聞いてくれる相手、何でもない話を分かち合える相手。それを友だちと呼ぶのでも、恋人と呼ぶのでも、たいした違いはない。その当たり前の事実をひとつ知るだけで、これから先の時間の色あいは、ふっと変わってくる。
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